日本航空123便墜落事故で亡くなった有名人&芸能人は?エピソードもまとめ
日本航空123便墜落事故とは?原因は?
まず最初に、日本航空123便墜落事故の概要についてご紹介します。
日本航空123便墜落事故は1985年8月12日に起こった航空事故です。
ボーイング747SR-100型機の日本航空123便(羽田空港発伊丹空港行き)は18時12分に羽田を離陸しました。
伊豆半島南部の東岸上空にさしかかる18時24分頃、機体後部の圧力隔壁が破損しました。
垂直尾翼と補助動力装置も脱落してしまい、油圧操縦システムが全喪失したため操縦不能となりました。
迷走飛行し、18時56分に群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根に墜落しています。
日本航空123便墜落事故の生存者は4名のみ
日本航空123便には、乗客乗員524名が搭乗していました。
しかしながら、生存者はそのうちのたった4名となってしまいました。
現時点では、単独機の航空事故で世界最多の死亡者数を出した大きな事故となっています。
123便は18時12分に離陸しておりちょうど夕方で帰宅ラッシュの時間帯だったこと、また8月12日でありちょうどお盆で帰省ラッシュでもあったことから、多くの犠牲者が出てしまいました。
また、有名人も多く搭乗していたのもさらに世間にショックを与える一因となっています。
一方で搭乗予定だったものの何らかの理由で取りやめたことで一命を取り留めた方もおり、後から実は搭乗予定だったと明かした有名人もいたことで話題になりました。
日本航空123便墜落事故に巻き込まれた有名人まとめ
それでは、日本航空123便墜落事故に巻き込まれてしまった有名人をご紹介していきます。
坂本九(歌手)
1人目は、歌手の坂本九さんです。
世代を越える名曲「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」でも、現在もよく知られる歌手です。
坂本九さんは123便搭乗の前日に、テレビ新広島の「クイズクロス5」の収録のため前乗りし、12日に収録に参加しました。
当初はその後車で大阪入りする予定でしたが、うつみ宮土理さんの夏休み休暇の代役で急遽NHK-FMの「歌謡スペシャル 秋一番!坂本九」の収録に参加することとなりました。
そのため1度帰京して収録に参加し、その後は翌13日に元マネージャーの香川弘行さんの選挙応援のため事務所開きに参加する予定でした。
普段は全日空を利用していたという坂本九さんでしたが、当日はお盆の最中であり全日空は満席で、招待側がやっとの思いで手配できたのが日本航空の123便のチケットだったそうです。
坂本九さんの知人がそのことを知り、全日空に変更するよう勧めたそうですが、坂本九さんは「せっかく用意していただいたのだから」と言っていたと言われています。
そうして123便に搭乗し、帰らぬ人となってしまいました。43歳でした。
坂本九さんの奥さんの由紀子さんと2人の娘さんは、のちにこのようなことを語っています。
事故の前日の夜、坂本さんは次女を抱きしめて目をつぶっていたそうです。
いつもなら、抱っこして冗談を言っているのが坂本九さんなのに、いつもと違うなと由紀子さんは感じたそうです。
さらに、事故当日の朝、空を見上げた坂本九さんは「今日は雲が速いから飛行機に乗りたくないんだよね」とつぶやいたのを次女は聞いたそうです。
当日家を出る際、何とも言えない表情をしたことが由紀子さんの印象に残っているんだそうです。
坂本九さんは、実は何かを感じ取っていたのだろうか?とも思えるエピソードでした。
北原遥子(女優)
2人目は、女優で元宝塚歌劇団雪組娘役の北原遥子さんです。
宝塚時代には「宝塚随一の美女」とも言われ、宝塚⁀退団後は当時市毛良枝さんや夏目雅子さんなどが所属していた其田事務所に所属し女優として活躍しました。
TBS系東芝日曜劇場1500回(1504回)記念テレビドラマ「星の旅人たち」の主演も決まっていたところでした。
北原遥子さんは横浜市に実家があり、お盆だったので帰省していましたが、大阪府にいる友人に会いにいくために123便に搭乗し帰らぬ人となってしまいました。
24歳という若さでした。
竹下元章(元広島カープ捕手)
3人目は、元広島カープの捕手で知られる野球選手・竹下元章さんです。
竹下元章さんは当日、甲子園球場へ群馬県代表となった息子の応援に行くために123便に搭乗し、帰らぬ人となりました。
47歳でした。
和田浩太郎(美容研究家)
4人目は、美容研究家の和田浩太郎さんです。
和田研究所の創始者である和田静郎さんの長男としても知られています。
和田浩太郎さんは稲川淳二さんと友人関係であり、当日は「稲川淳二のためになる話」の収録を手伝っていました。
その後私用があり大阪に向かうため123便に搭乗し、帰らぬ人となりました。
後に詳しくご紹介しますが、実は稲川淳二さんも123便に搭乗予定だったものの、搭乗を取りやめて難を逃れています。
中埜肇(阪神電鉄専務取締役・本部長・阪神タイガース球団社長)
5人目は、阪神電鉄専務取締役鉄道事業本部長・阪神タイガース球団社長の中埜肇さんです。
当時8月10日から阪神が平和台球場で地方主催試合を中日ドラゴンズと行っており、中埜は事務さんも福岡に赴いていて、8月11日に大阪へ戻りました。
8月12日、当時の阪神電鉄社長で球団オーナーを務めていた久万俊二郎さんが東京都千代田区霞が関にある運輸省で行われる日本民営鉄道協会の会議に出席できなくなり、急遽中埜さんが出席することとなりました。
そのため、電鉄本社常務取締役の石田一雄さんと共に東京へ行って会議に出席し、その後大阪へ戻るため123便に搭乗し、帰らぬ人となりました。
63歳でした。
中埜肇さんが123便の事故で亡くなったと知った球団関係者や選手たちは大きな衝撃を受け、ナイン全員と首脳陣は「亡くなった社長のためにみんなで頑張ろう」と誓い合ったと言われています。
その年、10月16日に阪神は、1964年以来21年ぶりにセ・リーグ優勝を果たしています。
その他の有名人
また、その他の有名人は以下のとおりです。
- 浦上郁夫(ハウス食品工業(現在のハウス食品グループ本社)の代表取締役社長)
- 塚原仲晃(医学博士・大阪大学基礎工学部教授)
- 辻昌憲(元自転車競技選手・64年東京オリンピック出場)
- 石野喜一(神栄石野証券(SMBC日興証券の前身会社のうち1つ)の代表取締役社長)
- 山本幸男(ミサワホーム専務取締役)
- 緋本こりん(同人漫画家)
- 藤島克彦(コピーライター)
日本航空123便墜落事故を運良く逃れた有名人まとめ
続いては、日本航空123便墜落事故を運良く逃れることができた有名人を、搭乗を取りやめた理由も併せてご紹介します。
明石家さんま(お笑いタレント)
1人目は、誰もが知っているお笑いタレントの大御所、明石家さんまさんです。
さんまさんは当日、MBSラジオの「MBSヤングタウン」に出演していました。
以前からよく123便に搭乗していたそうです。
しかし、ちょうどその年の7月から主役で出演中だった番組「さんまの駐在さん」の収録が火曜日から月曜日に変更になっていたそうです。
そのため移動日が日曜日となり、ちょうど123便に乗ることは無くなっていたため事故を逃れました。
この事故の後相当ショックを受けながら、当日の「MBSヤングタウン」でニュースを伝えました。
これを機に、さんまさんは東京⇔大阪間の移動に飛行機ではなく、東海道新幹線を使うようになったそうです。
長江健次(タレント)
タレントの長江健次さんも、123便の事故を逃れた1人です。
長江さんは当日、さんまさんと同じ「MBSヤングタウン」に出演するため搭乗予定だったものの難を逃れました。
「笑点」大喜利レギュラーメンバー(落語家)
当時の笑点大喜利レギュラーメンバーも、123便の事故を免れています。
当時のメンバーは、五代目三遊亭圓楽さん、桂歌丸さん、林家木久蔵(現在の林家木久翁)さん、林家こん平さん、三遊亭小遊三さん、三遊亭楽太郎(後の六代目三遊亭円楽)さん、古今亭朝次(現在の七代目桂才賀)さん、山田隆夫さんでした。
当時の笑点大喜利メンバーは、13日に予定されていた徳島での阿波踊りに参加予定でした。
しかし予約した徳島便は遅延し、徳島空港は悪天候だったことから予約便は条件付き運航になってしまいました。
そのため123便に搭乗して神戸港から船で徳島入りしようという案が出たそうです。
この時林家こん平さんが、「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ。きっと徳島空港に着陸できるよ」と言ったことから、結局徳島便に搭乗しました。
無事に徳島便で徳島に到着できた一行は、空港から宿泊するホテルへタクシーで移動中に事故のことを知りました。
同行するはずだった広告代理店の数名が123便に搭乗してしまっており、犠牲になってしまったそうです。
ジャニー喜多川(芸能プロモーター・音楽プロデューサー)
ジャニーズ事務所の元代表取締役・ジャニー喜多川さんも、事故を逃れました。
ジャニーさんは事故当日、大阪の新歌舞伎座で幕を開けた舞台「森の石松」に主演で出演していた近藤真彦さんの応援に向かうため123便に搭乗する予定でした。
しかし、近藤さんが初日に記者会見を開くのに来てほしいという要請があったので、前倒しで11日に大阪入りしていたことから犠牲にならずにすみました。
少年隊(アイドル)
少年隊のメンバー、錦織一清さん・植草克秀さん・東山紀之さんもジャニーさんと一緒に123便に搭乗予定でしたが、結局キャンセルして東京に残ることとなり難を逃れました。
久万俊二郎(阪神電鉄社長・阪神タイガースオーナー)
先にご紹介したとおり、阪神電鉄社長・阪神タイガースオーナーの久万俊二郎さんは123便の事故を免れています。
に保温民営鉄道協会の会議に出席後123便に乗る予定でしたが、代わりに中埜肇さん・石田一雄さんが出席する運びとなり、お2人が犠牲になってしまいました。
深田恭子(女優)
深田恭子さんは当時まだ2歳でしたが、家族と大阪へ向かうため123便位搭乗予定だったそうです。
しかし、当日東京モノレール羽田空港線が遅延したため飛行機に乗り遅れたことで事故を免れました。
木戸克彦(元プロ野球選手)
阪神タイガースで活躍していた木戸克彦さんは、当日に123便として羽田を飛び立つ前の羽田に向かう便(福岡発羽田行き366便)に搭乗していました。
もしこの飛行機が123便ではなく366便として運航中に事故が発生していたら、事故に巻き込まれていたかもしれません。
また、木戸克彦さんの奥さんは123便に搭乗予定だったものの直前にキャンセルをしており、夫婦ともに難を逃れています。
大西満(釣り師)
1980年代には「鮎釣り名人」としてよく知られていた釣り師の大西満さんも、123便の事故に巻き込まれずにすんでいます。
大西満さんは事故当日、123便の墜落現場から50数kmの前橋市の利根川にて、釣りファンに鮎釣りの講習を行っていました。
講習は15時頃までの予定だったものの、前日の大雨により川の水が濁っていて鮎が見えにくかったので、講習会は1時間ほど早く終了しました。
そのため家族には、18時頃の便で大阪へ帰ると伝えていたそうです。
講習を主催した釣具店を出発する直前「がまかつ製の釣竿が壊れたので修理をしてほしい」と知人に頼まれました。
釣竿の修理をしたために羽田空港に到着するのが30分以上遅れ絵しまい、123便のキャンセル待ちに並んだものの、便は満員で空席待ちも2人前で締め切られてしまい、後発の東亜国内航空207便に変更して難を逃れています。
しかし家族には便を変更したと伝えておらず、家族と近隣住民はパニックになっている最中に帰宅したそうです。
大西満さんは帰路で事故があったことを知らず、自宅について初めて事故があったことを知りました。
西川のりお(漫才師)
漫才師の西川のりおさんも当日、123便に搭乗予定でした。
しかし、羽田空港に移動中に乗っていたタクシーが渋滞に巻き込まれて空港に到着するのが遅れて、乗り遅れたことから事故を免れています。
いしだあゆみ・浅野ゆう子(女優)
いしだあゆみさんと浅野ゆう子さんも、帰郷するため123便に搭乗予定でした。
しかしながら羽田空港に到着するのが遅れたことから別の便に搭乗したため難を逃れました。
浅実れい(女優)
元宝塚歌劇団員で女優の浅実れいさんも、123便に搭乗予定でした。
しかし当日、仕事が予定より早く終わったため1便早い飛行機に振り替えたことから事故を免れています。
舛添要一(政治家)
政治家の舛添要一さんも、123便に搭乗予定でありチケットも持っていたものの結局搭乗しませんでした。
東京大学生時代には、よど号ハイジャック事件にも巻き込まれそうになったものの逃れています。
稲川淳二(タレント)
怪談家としても知られるタレントの稲川淳二さんも先に少し触れたとおり、123便に搭乗予定でした。
東京で「稲川淳二のためになる話」の収録後に大阪入りするために123便に搭乗するはずでした。
しかし、当日稲川さんは立つのがきついほど体調不良であり、大事を取って休養して翌朝国鉄東海道新幹線のひかり号一番列車で大阪入りすることにしたので123便はキャンセルしていました。
先にご紹介したとおり「稲川淳二のためになる話」の収録を手伝った和田浩太郎さんは123便に搭乗し犠牲となりました。
後に稲川淳二さんは、「これが運命の分かれ目」と、2005年7月にリリースしたビデオ「稲川淳二の夜話シリーズ」第4弾「稲川淳二の怪異夜話」の第7話「日航機123便」で語っています。
逸見政孝(アナウンサー)
当時フジテレビのアナウンサーとして活躍していた逸見政孝さんも、123便に搭乗する予定でした。
当日、逸見さんは家族で大阪の実家に123便で帰省しようとしていました。
しかし満席で予約できず、奥さんが実母にそのことを話したところ「もし事故でも起きたらどうするんだい」と言われ、奥さんが「4人なら新幹線の方が安い」と提案し、直前に東海道新幹線の「ひかり」を利用することにしたそうです。
無事実家について夕ご飯を食べていた時、ニュース速報で事故を知りました。
その他の有名人
その他の、123便の墜落事故を免れた有名人は、以下のとおりです。
- 村尾晞峰(書道家)
- 勝谷誠彦(コラムニスト)
- 神田敏晶(ITジャーナリスト)
- 佐々木正(シャープ副社長)
まとめ
今回は、1985年8月12日に起こった日本航空123便墜落事故で亡くなった有名人や、事故を免れた有名人についてご紹介しました。
搭乗予定でなかった人が巻き込まれてしまったり、搭乗予定だったのに何らかの理由で搭乗しなかったことで難を逃れたりした人がたくさんいました。
人生、いつどこで何が起こるか分からないということを改めて感じますね。
もう二度とこのような悲惨な事故が起こらないことを祈るばかりです。
最後になりましたが、123便の事故で亡くなってしまった皆様のご冥福をお祈りいたします。
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