メアリー・セレスト号の真相は?乗員が失踪した海洋史上最大の謎を考察!
今回は、「メアリー・セレスト号」事件の真相について考察します。海洋史上最大の謎とも言われているメアリー・セレスト号事件を知っていますか?乗員が謎の失踪?真相は?詳しくご紹介していきます。
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メアリー・セレスト号事件とは?概要は?
まずは、メアリー・セレスト号事件の概要についてご紹介していきます。メアリー・セレスト号が有名となった事件はどのような事件だったのでしょうか。
メアリー・セレスト号事件の概要
Meine Reise geht hier leider zu Ende. Märchen beginnen mit/Pixabay
メアリー・セレスト号事件の概要については、以下の通りです。
1872年12月4日、メアリー・セレスト号はポルトガル沖のアゾレス諸島付近の海域で漂流しているところを発見されました。
発見したのはカナダ船籍のデイ・グラツィア号です。付近を通りかかったその船の船長のデヴィッド・リード・モアハウスはメアリー・セレスト号の船長のベンジャミン・ブリッグズの親友でした。
デイ・グラツィアの船員は約2時間の間、メアリー・セレスト号を観察しました。遭難信号はなかったものの、漂流中なのだろうと判断し、小さなボート数隻でメアリー・セレスト号へ向かいました。
メアリー・セレスト号は船全体が水浸しになっていて、ポンプは一基を除き操作できなかったものの、目立った損傷はなかったので航行可能な状態でした。
しかしながら、メアリー・セレスト号に乗っていたはずの乗員10名は忽然と姿を消していたのです。
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メアリー・セレスト号の当時の状況を整理!
続いては、メアリー・セレスト号の真相に近づくために、まずはメアリー・セレスト号に関する当時の状況を整理していきます。
メアリー・セレスト号はどんな船?いわくつきだった?
Brigitte makes custom works from your photos, thanks a lot/Pixabay
まずは、メアリー・セレスト号がどんな船だったのかということについてご紹介します。
メアリー・セレスト号は、全長103フィート(約31メートル)、重量は282トンであり、2本マストの帆船(ブリガンティン)でした。
1861年に、ノバスコシアのスペンサー島にて「アマゾン」という船名で建造された船です。
しかし、建造中から数々の事故が発生したいわくつきだったという説もあります。
所有者は数回変わり、1869年にメアリー・セレスト号と改称されました。
メアリー・セレスト号の出航時の状況は?
続いては、メアリー・セレスト号の出航時の状況です。
メアリー・セレスト号は、漂流しているのが発見される約1か月ほど前の1872年11月7日に、ニューヨークからイタリア王国のジェノヴァへと出航しました。
ニューヨークから出荷された工業用アルコール(メタノールだろうと言われています)を積んでいました。
船長はベンジャミン・ブルッグズで、その妻のサラと娘のソフィア・マチルダ、その他船員7人の計10人が乗っていたとされています。
発見されたメアリー・セレスト号の内部の状況は?
続いては、漂流していたメアリー・セレスト号の当時の詳しい状況です。後にご紹介しますが、この事件は海難審判になったため、当時の状況が詳しく残されています。
- 水を汲みだすポンプが一基を除き壊れていた
- デッキが水浸し、船倉は3フィート半(約1.1m)浸水していた
- 前ハッチと食料貯蔵室が開いていた
- 方位磁針が破壊されていた
- 六分儀とクロノメーターがなくなっていた
- 救命ボートは故意に降ろされた形跡があった
- 3つの手すりに血痕があった
- 1つの手すりに謎のひっかき傷があった
- 船長の寝台の下には刀剣があった
- 積み荷の1700樽のアルコールのうち9樽が空で、残りは無事だった
- 6か月分の食料と水が残っていた
- 船内の書類は、船長の航海日誌以外無くなっていた
- 日誌の最後の記録は11月24日、「アゾレス諸島の西方100マイルの海上にいた」となっていた。
メアリー・セレスト号の発見のその後は?
メアリー・セレスト号の発見のその後についてですが、発見したデイ・グラツィアの乗組員がメアリー・セレスト号をジブラルタルまで曳航しました。
しかし、海自裁判所事務官により、デイ・グラツィアの乗組員に不正行為を疑いました。デイ・グラツィアの乗組員は海事法に則り、遭難船回収の報酬を要求したためです。
デイ・グラツィア号の船長とメアリー・セレスト号の船長が親友だったため、詐欺が疑われてしまい海難審判にかけられることとなりました。
結局、乗組員は無罪となり、積み荷の15%相当額の賞金を受け取りましたが、相場の額よりは低いものになりました。疑いを証明できなかったためだったようです。
その後、1873年初めに、スペイン沿岸に救命ボートが2隻漂着したことがありました。1隻には1人の遺体とアメリカ合衆国の国旗、もう1隻には5人の遺体がありました。
これらがメアリー・セレスト号の乗組員であったかどうかについては調査されなかったと言われていますが、真相はわからないようです。
ちなみに、船長のベンジャミン・ブリッグズの国籍はアメリカでした。また、その他の乗組員のうち2名はアメリカ国籍だったようです。
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メアリー・セレスト号事件の不可解な点は?
メアリー・セレスト号事件には、複数の不可解な点がありました。以下の通りです。
- 船には大きな損傷はなかった
- 食料や水も十分だった
- 乗組員の私物等もかなり残っていた
- 救命ボートは急いで出したような様子だった
- コンパスが破壊されていた
- 六分儀やクロノメーターがなくなっていた→完全に船を放棄しようとした?
- 船の書類が無くなっていた
- 積み荷のアルコールはほぼ無事だった
メアリー・セレスト号の不可解な噂は?
さらには、メアリー・セレスト号事件にはいくつか不可解な噂もあるようです。以下の通りです。
- 発見当時、乗組員の朝食が温かいままで残っていた
- 火にかけたままの鍋があった
- 洗面所にひげを剃ったあとがあった
- 船長の日記には「妻のマリー(もしくはファニー)が…」という走り書きがあった
こちらについては、後でついてきた脚色と言われていて、創作だったと言われています。
メアリー・セレスト号事件の真相を考察!
それでは、メアリー・セレスト号事件の真相を考察していきたいと思います。乗組員はなぜ、航行可能なメアリー・セレスト号から失踪してしまったのでしょうか。
①海賊襲撃説
一つ目は、海賊襲撃説です。乗組員が全員失踪していたので、外から襲撃されたのではないか?と言われています。
しかしながら、積み荷のアルコールはほぼ無事だったことから、海賊の襲撃だったということは考えにくいかもしれません。
②デイ・グラツィア号が襲撃説
二つ目は、デイ・グラツィア号の乗組員が襲撃したのではないかという説です。
これに関しては、裁判で懐疑が晴れなかったこともあり、可能性がないとは言い切れないでしょう。
しかしながら、船長同士が親友だったということですので、2人の間に何かがない限りは考えにくい仮説です。
③食中毒によるパニック説
三つ目は、乗組員が食中毒を起こしパニックになったのではないか?という説です。
メアリー・セレスト号に積んでいたパンに麦角菌という菌が付着していて乗組員が食中毒を起こし、パニックになって全員海に飛び込んだのではないかということです。
しかしながら、後にデイ・グラツィア号の乗組員は残っていたお案を食べ、特に問題はなかったそうです。
乗組員全員が食中毒で海に飛び込んでしまうということも考えにくいかと思います。
④自然災害説
四つ目は、何らかの自然災害に遭ったという説です。嵐に巻き込まれたり、大きな波にのまれたりして乗組員が海に転落してしまったのではないかということです。
確かに、メアリー・セレスト号は発見時水浸しでしたし、可能性としてはありえなくはなさそうです。
しかしながら、前ハッチと食料貯蔵室が開いていたのに、積み荷や私物等はしっかり残っていたことから、乗組員だけが流されて転落してしまったというのは考えにくいという意見もあります。
⑤乗組員による暴動説
五つ目は、乗組員が暴動を起こしたという説です。乗組員の中で何らかのトラブルが起き、海に投げ出されたか救命ボートで脱出したのではないかということです。
しかしながらこれについては、当時の乗組員を知っている人たちが「そんな人達ではなかった」と証言していると言われています。
また、仮に暴動が起こっていたとしても、全員が船に残っていないというのも奇妙な話ではないでしょうか。
⑥バミューダトライアングルなどの超常現象説
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六つ目は、バミューダトライアングルやUFOに連れ去られたといった超常現象説です。
これに関しては起こっていたとしても、誰一人船に残っておらず、目にしていない限り確かめようがなく、可能性としても低そうです。
⑦積み荷の工業用アルコール爆発説
七つ目は、工業用アルコールが爆発したのではないかという説です。積み荷だった工業用アルコールが爆発した、あるいはアルコールが漏れて船が爆発するかもしれないと思い、慌てて脱出したのではないかということです。
確かに積み荷のうち9つの樽は破損しており、中身もなくなっていたそうで、前ハッチと食料貯蔵室が開いていたことや、救命ボートを慌てて降ろしたような痕跡があったことなどからも有力な説ではないでしょうか。
一方で、9樽が仮に爆発したとするなら、他の積み荷が無事だったというのがおかしいという声もあったようです。
Here and now, unfortunately, ends my journey on Pixabay/Pixabay
これについては2005年に、模型により同じようにいくつかの樽のアルコールを爆発させる実験が行われたのですが、爆発させた樽以外は無事だったようです。
メアリー・セレスト号が当時積んでいた工業用アルコールとは、中身はメタノールだったのではないかと言われていますが、メタノールは燃焼する温度が低いのです。
そのため、周囲の物体を焼くことがなく、爆発する場合があります。
しかしながら、爆発を目の当たりにした乗組員たちは焦ったはずです。船長のベンジャミン・ブリッグズは、それまで工業用アルコールを輸送したことはなかったようです。
爆発により乗組員全員は慌てて救命ボートに退避し、様子を見るはずだったのですが、船と救命ボートをつなぐロープが切れてしまい、遭難してしまったのではないか?ということです。
フォスダイク文書が話題に!本当なの?
メアリー・セレスト号事件があった40年ほど後の1913年、イギリスの月刊誌「ストランド・マガジン」にアベル・フォスダイクという人物による文書が発表され話題になりました。
そのアベル・フォスダイクは、メアリー・セレスト号の密乗車で、友人だったメアリー・セレスト号の船長、ブリッグズに頼み、同乗していたそうです。
フォスダイク文書は、フォスダイクの死後にハワード・リンフォードという友人が発見したことで明るみに出ることとなりました。
フォスダイク文書によると、メアリー・セレスト号には海を見渡せる展望デッキがあったそうです。
事件の日、ブリッグズは部下に「人間は服を着たまま泳げるのか」と言い、証明するため船の周りをふざけて泳ぎまわっていたそうです。
ブリッグズの妻と娘とフォスダイク、その他乗組員2名がそのデッキに上がり、眺めていました。
ブリッグズに続いて乗組員も数人海に飛び込み、泳いでいたところ、乗組員のうち1人がサメに襲われました。
船上に残っていた他の乗組員がデッキに上がり、いったい何が起こっているのか確かめようとしたところ、デッキが壊れて乗っていた人は海へ落ちました。
その時フォスダイクだけがデッキの残骸に落下したため助かり、他の全員はサメに襲われてしまったそうです。
フォスダイクだけが生き残り、メアリー・セレスト号も遠く離れてしまい、戻ることは出来なかったそうです。
フォスダイクは数日間漂流後、なんとかアフリカの海岸に漂着したそうです。
しかしながらあまりも奇妙な事件だったので、フォスダイクは誰にも真相を明かさなかったんだそうです。
フォスダイク文書にはおかしな点があった?
しかし、このフォスダイク文書には、事実と異なる記載もあったと言われています。
まず、フォスダイクはメアリー・セレスト号は600トンの船と記載していたものの、実際には先にもご紹介した通り282トンです。
また、船員はイギリス人と記載があったそうですが、実際にはオランダ人でした。
さらに、先にご紹介した羅針盤が壊れていたことや六分儀とクロノメーターがなかったこととの関係が見えてこないという謎も残ります。
フォスダイクが実際にメアリー・セレスト号に乗っていたかどうかも確かめようがないことから、この文書については本当かどうかが分からないというのが現状です。
メアリー・セレスト号の真相!救命ボートに避難後全員が死亡?
メアリー・セレスト号の真相についてですが、原因ははっきりとはわかりませんが、六分儀とクロノメーターが持ち去られていたこと、救命ボートが降ろされていたことなどから、何らかの理由で全員でメアリー・セレスト号を脱出したところ、誰も生きては帰れなかったというのが真相なのではないでしょうか。
可能性としては、積み荷のアルコールが関係しているという説が有力でしょう。
事件後のメアリー・セレスト号は?
事件後のメアリー・セレスト号の行方についてご紹介します。不気味に思われたメアリー・セレスト号でしたが、その後もしばらく持ち主を変えつつ、航海を続けていました。
しかし1885年、ハイチのゴナーブ島にて座礁してしまいます。これは、当時の所有者だったギルマン・C・パーカーが保険金目的で座礁されたと言われていて、パーカーは逮捕されました。
結局メアリー・セレスト号は放棄されてしまい、廃船となりました。2001年8月、船の残骸が発見されたそうです。
メアリー・セレスト号の事件は作品にもなっている?
その後、メアリー・セレスト号事件は、いくつかの作品の題材にもなっています。
①小説「J・ハバクック・ジェフソンの証言」
1884年にアーサー・コナン・ドイルにより発表された「J・ハバクック・ジェフソンの証言」は、メアリー・セレスト号事件を引用した創作です。
この小説の中では、船の名前は「マリー・セレスト (Marie Celeste)号」となっています。
「朝食を調理中だった」と言ったような噂の原因は、この「J・ハバクック・ジェフソンの証言」の創作が元になったと言われています。
色々な創作が事実として広まってしまった一因になっているようです。
②映画「メアリー・セレストのミステリー」
1935年には、「メアリー・セレストのミステリー」という映画も公開されました。イギリスの映画です。
メアリー・セレスト号は海洋史上最大の未解決事件
今回は、メアリー・セレスト号の事件の真相について、まとめました。メアリー・セレスト号の事件は、乗員だけが忽然と姿を消してしまった不可解な事件でした。真相ははっきりとしたことはわかりませんが、何らかの問題が発生して船を離れた結果、全員が生きて帰れなかったということなのではないでしょうか。
乗員全員が船を離れた理由としては、積み荷のアルコールに関するトラブルである可能性が高そうです。メアリー・セレスト号の乗員はどうなってしまったのか、今となってはわかりません。最後になりましたが、乗員の皆さんのご冥福をお祈り申し上げます。
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