日本の怨霊一覧!日本三大怨霊とは?怨霊とはどんな意味!?
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怨霊の意味は?
怨霊の意味は祟りや災いをもたらす悪霊
そもそも、怨霊とは何なのでしょうか。怨霊とは、自分が抱える恨みや憎しみから、祟りや災いをもたらすとされる悪霊のことです。読み方は「おんりょう」と読みます。
怨霊には、死者の魂である「死霊」のみならず、「生霊」の場合もあります。
未練が残る死や凄惨な死を迎えた人の霊、あるいは恨みや憎しみを募らせた結果、生きている人が魂を飛ばしてしまった生霊が怨霊となりえるのです。
日本では、古くから怨霊が恐れられてきました。恨みや憎しみの程度が強いほど、より恐ろしい祟りや災いをもたらすとされています。
怨霊を祀った神社がある!?
恐れられてきた怨霊ですが、神様として祀られている神社が多くあり、現在では怨霊というよりは神様として有名な場合も多いようです。
かつては、立て続けに起こる不幸な出来事、あるいは疫病や災害までも怨霊の祟りだと思われていました。
当時の人々は怨霊を神と祀ることで祟りを鎮めようとしてきた歴史があり、怨霊を祀った神社も多くありました。
そのため、現在では神様として知られているものの、元々は怨霊だったという場合も多くあるのです。
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日本の有名な怨霊!日本三大怨霊とは?
それでは早速、日本の有名な怨霊をご紹介していきます。日本でよく知られている怨霊として「日本三大怨霊」というものがあります。
日本三大怨霊とされているのは、歴史的によく知られている菅原道真(すがわらのみちざね)、平将門(たいらのまさかど)、崇徳天皇(すとくてんのう)です。
この三人がどうして怨霊として恐れられてきたのか、詳しくご紹介します。
①菅原道真
現在は「学問の神様」として有名な菅原道真。元々は怨霊として恐れられた存在だったのです。菅原道真の生涯についてご紹介します。
しかしながらその出世をよく思わない人もいて、「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」ということで左遷されることとなったのです。
当時の左大臣を務めていた藤原時平の陰謀という説もありますが、多くの貴族層も反感を持っていたとされており、道真の失脚は後者が原因とも言われているようです。
左遷先の大宰府へは自費で移動し、その後は俸給や従者もなく、政務にもあたることを禁止され、2年後に死去しました。
しかしその後、より権力を強めた藤原時平は39歳で急死し、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が死去、宮廷内に落雷があり多くの死傷者が出て、3か月後醍醐天皇も死去してしまったのです。
これらは菅原道真の怨霊による祟りとされ、菅原道真の怒りを鎮めようと、死後に太政大臣や左大臣の位を与えたりするも、災いは収まりませんでした。
そのため菅原道真は北野天満宮に神として祀られることとなったのです。落雷をもたらしたことで雷神とされ「天神様」とも呼ばれました。
そうしているうちに祟りはなくなり、怨霊として恐れられることも無くなっていきました。
生前、詩歌や学問に秀でていたことから「学問の神様」と崇められるようになり、現在に至ります。
②平将門
平氏の一族で平安中期の関東の豪族として有名な平将門。元々は京で藤原氏に仕えていました。
父親の平良将が死去したため関東に戻り、領地の相続をめぐって親族間の争いとなりました。平国香や平良兼に襲撃を受けるも返り討ちにして勝利し、有名になります。
多くの武士を従えるようになった平将門は、関東八か国の国府を襲撃し国司を追放し、「新皇」と名乗りました。「平将門の乱」として知られています。
しかしこれが朝廷への反逆とされ、追討令が出されることとなりました。将門はわずか2か月ほどで現在の茨城県坂東市岩井付近で討ちとられてしまいます。
その後将門の首は平安京へと運ばれ、都大路で晒し首とされます。しかし、この首が腐ることもなく、また目は見開いていたとされています。
さらには「胴体と首をつないでもう一戦しよう!」と叫んでいたともされ、その後切断された胴体がある関東へと飛んで行ったそうです。
この首は数か所に落ちたとされていますが、その一つが現在の千代田区大手町の「将門の首塚」です。
これで終わったと思いきや、関東大震災の後に大蔵省庁舎が全焼したため仮説庁舎を首塚のある場所に建てたところ関係者が次々に亡くなるという事態に見舞われました。
戦後にはGHQが首塚を取り壊そうとすると重機が横転し運転手が死亡する事故も起こっています。
将門の首塚を取り壊そうとすると災いが起こるのは平将門の怨霊による祟りだと言われるようになりました。
③崇徳天皇
和歌が好きだったことでも知られている崇徳天皇。鳥羽天皇と藤原璋子の第一皇子として生まれ、3歳で天皇となります。
しかし実権を握ることはほとんどなく、上皇となった鳥羽上皇により譲位を迫られて「崇徳院」となりました。
鳥羽上皇が、崇徳天皇の異母弟にあたる体仁親王が天皇へ即位させたので、崇徳院は将来の院政が不可能になったのです。
鳥羽上皇の死後、不満を募らせた崇徳上皇は当時の後白河天皇と対立し「保元の乱」となります。
崇徳上皇は破れて出家したものの、当時は上皇は在家出家を問わず院政を行えたため権力放棄と認められませんでした。
崇徳上皇は讃岐へ流され、そこで仏教に深く傾倒します。五部大乗経の写本作りに専念し、戦死者の供養と反省の証ということで完成した写本を京の寺に納めてほしいと朝廷に送りました。
しかし後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と拒否し、送り返したのです。
崇徳院は激しく怒り、舌を噛み切って、写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書いたそうです。
その後は死ぬまで爪や髪を伸ばし、夜叉のような姿をしていたと言われています。
崇徳院の死後には、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が起こり、後白河法皇に近しい人達が次々に死去しました。
これらは崇徳院の怨霊による祟りとされ、保元の乱の古戦場に「崇徳院廟」が設置されました。
崇徳院の祟りと言われる災いは、その後後白河法皇が亡くなるまで続いたんだそうです。
日本のその他の怨霊一覧!
続いては、日本三大怨霊以外に日本で有名な怨霊についてご紹介していきます。一覧は、以下の通りです。
- 長屋王
- 早良親王
- 井上内親王
- 他戸親王
- 安徳天皇
- 後鳥羽上皇
- 順徳上皇
- 後醍醐天皇
ここからは彼らがどうして怨霊と言われているのかについて、簡単にご紹介します。
①長屋王
長屋王とは「ながやおう」または「ながやのおおきみ」と読みます。飛鳥時代から奈良時代の皇族で、第40代天皇である天武天皇の孫にあたります。
当時の権力者で知られる藤原鎌足の次男である藤原不比等に次ぐ地位にいて、藤原不比等の死後はその地位を継ぐほどの権力を持っていました。
しかし藤原不比等の息子たちの藤原四兄弟が良く思わず、権力を持つため妹を皇后にしようとしますが、長屋王はこれに反対。
729年にあたる神亀6年に下級官僚より「長屋王が妖術によって国家転覆を狙っている」と密告があり、長屋王は弁明もできず家族と自害してしまいました。「長屋王の変」と言われています。
その後藤原四兄弟は妹を皇后にしたのですが、735年(天平7年)に疫病が流行し2年後の737年には藤原四兄弟が病気で亡くなりました。このことは、長屋王の怨霊による祟りだと言われるようになったのです。
なんと長屋王の怨霊の祟りは現在も続いているという話があるのです。昭和から平成にまたがる頃、奈良市二条大路南にてそごうデパート建設のための発掘調査を行っていたそうです。
するとその場所は長屋王の屋敷跡だったという証拠が見つかりました。そのためそのまま残そうという意見もありましたが、結局奈良そごうが建設されました。
しかしそごうは閉店となり、その後イトーヨーカドー奈良店が建てられたものの、2017年に閉店しています。
②早良親王
早良親王は光仁天皇の皇子でしたが、母方が下級貴族だったので立太子は望まれておらず、出家をしていました。
しかし、781年(天応元年)に兄の桓武天皇が即位した際、光仁天皇の勧めで還俗し、立太子されました。
785年(延暦4年)に藤原種継の暗殺に関与したとされ、乙訓寺に幽閉されてしまいます。
早良親王は無実を訴えるために絶食し、淡路国に配流される途中で亡くなったそうです。
しかしながら、早良親王の死には、桓武天皇が飲食物を与えず餓死させるという方法で間接的に処刑したのでは?という説もあったようです。
その後、安殿親王が病気になったり、桓武天皇の妃であった藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子が病死したり、桓武天皇の生母で早良親王の生母でもある高野新笠が病死したりと不幸が重なりました。
疫病や洪水も起こったため、早良親王の祟りと言われるようになりました。桓武天皇は早良親王の祟りを恐れ、長岡京から平安京へと遷都しました。
③井上内親王
井上内親王は第45代聖武天皇の第1皇女で、721年(養老5年)に5歳で伊勢神宮の斎王となりその6年後の727年(神亀4年)に伊勢へ白壁王(光仁天皇)の下向しますが、744年(天平16年)に弟の安積親王が亡くなり任を解かれます。
帰京して白壁王(光仁天皇)の妃になり、770年(宝亀元年)に光仁天皇が即位し、立后されました。
しかし772年(宝亀4年)に光仁天皇を呪詛したとされ皇后を廃されてしまいます。
773年(宝亀4年)には光仁天皇の同母姉である難波内親王が亡くなり、呪詛して殺害したと嫌疑をかけられ、庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の邸に幽閉され、約1年半後に死去しています。
井上内親王が光仁天皇を呪詛したとされているのは、藤原式家一派の陰謀という説もあるようです。
776年(宝亀7年)以降天災が多く起こり、廃后(井上内親王)の怨霊の祟りと言われ、廃后は竜になったという噂が立ちました。
延暦19年には井上内親王を皇后と追号したり、御墓を山陵と追称したりされています。
後には霊安寺(廃寺)が建立され、隣には内親王を祀る御霊神社も作られました。
④他戸親王
他戸親王は先にご紹介した井上内親王と光仁天皇の皇子として生まれました。
光仁天皇が即位した翌年の771年(宝亀2年)に皇太子として立てられたものの、772年(宝亀3年)には井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。
773年(宝亀4年)には井上内親王による難波内親王への呪詛の嫌疑がかけられ、他戸親王も井上内親王と一緒に庶人となり幽閉され、井上内親王と同じ日に死去しています。
この後の天変地異により、他戸親王の怨霊の祟りと言われるようになりました。
⑤安徳天皇
安徳天皇は高倉天皇の第一皇子として生まれ、母は平清盛の娘の徳子でした。
1178年(治承2年)に生まれ、間もなく立太子され、1180年(治承4年)に満1歳4か月で即位しました。
政治の補佐は外祖父の平清盛が取り仕切っていましたが、1183年(寿永2年)に源義仲が入京して平宗盛以下平家一門に連れられて三種の神器とともに都落ちしています。
1184年(元暦元年)に後鳥羽天皇が即位して2人の天皇が擁立されました。
安徳天皇は大宰府を経て屋島に行って1183年に見晴らしの良い高台に行宮を置きました。
しかし源頼朝が鎌倉源氏軍を派遣して一ノ谷の戦いと屋島の戦いに平氏は敗北してしまいます。最後の決戦となった壇ノ浦の戦いにて平氏は敗北して滅亡となりました。
安徳天皇は最期を覚悟した母方祖母・二位尼(平時子)に抱えられ、壇ノ浦の急流に入水し亡くなっています。
壇ノ浦の戦いの1年後に、安徳天皇の怨霊を鎮めるために源頼朝の命で阿弥陀寺御影堂が建てられています。
⑥後鳥羽上皇
後鳥羽上皇は高倉天皇の第四皇子として生まれ、先にご紹介した安徳天皇が三種の神器をもって都落ちしたことから三種の神器を持たず即位しました。
1198年(建久9年)に土御門天皇に譲位し院政を敷き、1221年(承久3年)に執権・北条義時追討ということで承久の乱を起こして敗北。
後鳥羽上皇は隠岐島に流されることとなりました。直前に出家して法皇となりました。1239年に亡くなっています。
1237年に後鳥羽院は「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」と置文を記したそうです。
三浦義村や北条時房の死は後鳥羽院の怨霊の祟りという説もあったようです。
⑦順徳上皇
順徳上皇は後鳥羽上皇の後鳥羽天皇の第三皇子として生まれ、父である後鳥羽上皇の倒幕計画に参画し、1221年(承久3年)の4月には子である懐成親王に譲位しています。
しかし承久の乱では敗北してしまい、佐渡に流されてしまい、1242年、後鳥羽上皇が亡くなった3年後に死去しています。
「平戸記」には「御帰京事思食絶之故云々」という記載があり、京都に戻れないならばこれ以上は生きていても利益がないので断食して餓死したという説もあります。
頭に焼き石を置いたという話もあるようです。
崇徳院の怨霊の前例があったので、後鳥羽上皇と同じく順徳上皇も怨霊化するだろうと言われていました。
幕府は鶴岡八幡宮境内に新若宮を作って、後鳥羽上皇、順徳上皇を合祀しました。
⑧後醍醐天皇
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇で、両統迭立のため自分の子供に皇位を譲位できず上皇になっても権力を握れなかったので、鎌倉幕府の両統迭立を壊そうと倒幕運動を行いました。
元弘の乱で鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行いましたが、足利尊氏と戦って敗れ、南朝政権を立てます。
一方、足利尊氏の室町幕府は北朝を擁立して南北朝時代へと突入しました。後醍醐天皇は足利尊氏が征夷大将軍となった翌年に死去しました。
その後は毎晩のように車輪のようなものが都へ光りながら飛んで行って事件を起こしたという噂や、都で疫病が流行し、足利直義が病気になったりして、後醍醐天皇の怨霊だと言われるようになりました。
足利尊氏は後醍醐天皇の菩薩を弔うため、大覚寺統の離宮の亀山殿に光厳上皇の院宣を受け、天龍寺を立てました。
日本の有名な怨霊まとめ!
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今回は日本の有名な怨霊について、まとめました。実は現在は神様として祀られている人が多いというのは、面白いですね。
本当に怨霊の仕業かどうかというのはわかりませんが、人に恨まれるようなことがないように生きていきたいものですね。
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